二本松は、室町時代に開かれた歴史ある城下町。
「二本松」の歴史は古く、室町時代初期の1341年にさかのぼります。奥州探題・畠山高国が居館をつくり、地名を二本松と改称したのが始まり。この名は、かつてこの地に二本の霊松があったことに由来するそうです。やがて七代当主・満泰は、守りに適した白旗ヶ峯に城を移し、姓を「二本松」と名乗ります。しかし戦国時代になると、伊達政宗の攻撃を受けて滅され、二本松は伊達領となりました。
江戸時代には、織田の猛将・丹羽長秀の孫、光重が入城。二本松藩の威厳を表すため城を大改修し、城下町や法制が整備されました。二本松で家具作りが盛んなのは、この大改修が起源とか。明治維新まで十一代続いた丹羽家は、今も「にわ様」と愛されています。
1868年の戊辰戦争で、二本松藩が新政府軍と戦ったことはご存じの通りです。この時の二本松少年隊の最期は、会津の白虎隊と並ぶ悲劇として語られています。
「二本松少年隊」は12〜17歳の少年兵部隊です。通常なら出陣できない年頃の子どもも、この切迫した状況下、実年齢より2歳年上とみなされて出陣していました。
二本松城は、多くの兵士が白河口に出陣していた隙になだれ込んできた敵軍の攻撃を受け、わずか1日で落城。連絡を絶たれ、最前線に取り残された少年兵が、戦闘に巻き込まれて殉死してしまったのでした。
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霞ヶ城(箕輪門)
江戸時代、丹羽光重が藩主となった際に石垣が積まれ、三重の天守閣が築かれました。今の城壁は昭和57年に復元されたもの。
東日本大震災で一部が壊れましたが、補修が完了しています。
戒石銘
丹羽7代藩主が、藩政改革と綱紀粛正の指針を示すために自然石に刻んだ、藩士達の心得。
「お前達(藩士)の棒給は、領民の汗と脂の結晶だ。つねに感謝し、領民をいたわなければならない。領民を苦しめれば、必ず天の怒りに触れるであろう。」という意味。
かつて町の小学生はみんな暗記したそうです。
洗心亭
かつて「墨絵の御茶屋」と呼ばれた茶室。
戊辰戦争でも焼失をまぬかれ、今の場所に移築されました。
大隣寺(少年隊の供養塔)
12~17 歳の62 名が出陣した二本松少年隊は、激しい戦いの後25 名が戦死。
丹羽藩主の墓のある大隣寺に、このうち隊員14 人の供養塔があります。(他の隊員達はそれぞれの菩提寺に眠っています。)
古木が茂る大隣寺参道は今も森閑として厳かな空気。
参道前でも戦いがあったと思うと、切ない気持ちにも。
二本松神社
お城の大改築の際、白旗ヶ峯にあった神社をこの清地に遷宮し、丹羽家と領民の守護神としました。
360年の伝統を誇る二本松の提灯祭りは、この二本松神社例大祭です。
※この記事はaruku2013年10月号に掲載したものです。