写真が好き。その気持ちは写真を始めてからずっと変わりません。
野口さんはいつから写真家になろうと思っていたのですか?
野口 中学生の頃です。友達に誘われて入った写真クラブがきっかけで。そこでモノクロフィルムを現像した時、暗室の中で浮き出てくる画像を見たら足の先から頭のてっぺんまで電気が走りました。ついこの前まで小学生だった自分が町の写真屋さんと同じ様なことができるということが衝撃だったんです。学校に写真が好きな先生がいて、いろいろ聞けたのも良かったんでしょうね。
それから、ずっと写真を撮っているのですね。
野口 そうですね。身近な人や風景を撮って、写真をプリントして渡すと喜んでもらえたんです。それが嬉しくてどんどん写真にのめりこんでいきました。当時は、お年玉を貯めては現像の薬品や印刷紙を買っていました。家でも屋根裏を暗室にしたり、プロ用の機械も無いのにカラーの現像キットを買ってやってみたり。上手くいかなかったんですけどね。進路も、写真学科と決めていました。それで入学したんですが、みんなで写真を撮って上がったものを見たら、自分の写真が一番悪くて驚きました。それまでは自分が最高だと思っていたので、レベルの高さにショックを受けましたね。何を撮っているかという以前に、技術の差に驚きました。
技術にどんな差があったのですか?
野口 私の写真は白と黒のコントラストが分かれ過ぎていたのに、それで良いと思っていたんです。でも、もっと見たいと思うところが飛んでいたり、潰れていたりと写真としての情報量が少なくて。他の人の写真はグラデーション豊かで、滑らかで、もっと見たいと思わせるものがあったんですよね。情報をいかにその1枚の中に凝縮させるかが写真なんだとその時思い知りました。それからは友達や先生に納得いくまで教えてもらいました。今まで自己流だったので、目から鱗。ずっとそんな感じでした。
卒業後はどのような仕事をしたのですか?
野口 私は何をやりたいんだと考えたときに、印刷物として残る写真を撮ることだと思いました。それで、広告のカメラマンのところで助手をする形で広告の道に進みました。でも、クライアントの要望に応えて写真を撮ることは職業であり、自分の意志で作品を創るのが写真家だと思っていたので、いつかは写真家として認められたいという気持ちはありましたね。
広告の写真を撮ることと作品を創ることは別物なのですね。
野口 はい。広告の写真はただ撮るわけではなく、作りこんでいくものなんです。クライアントの要望からイメージを膨らませ、さらに提案するんです。また、時代とともに要望も変わるので技術的にも高い写真を撮れるようにして、アイディアを出すことが求められます。だから、今でもいろいろな広告写真を見て、どのように撮ったのか疑問に思ったら機材や撮り方を研究します。知らないということが写真に関しては我慢できないので、ものにすればプロとしての道を究められると常に思ってきました。「福島の花」の写真も、こうやって得た技術を使って背景を取り去った写真にしているんですよ。
「福島の花」を撮り始めたきっかけは何だったのですか?
野口 震災直後に仕事が全て止まったとき、仕事を辞めようと思ったんです。自分は何もできないと無力感を味わいました。そんなときに花に接して心が洗われたんです。だから、花を見て元気をもらえるのでは、と感じたんですよね。それで、震災直後から花を撮るようになりました。身近な素材だからこそ受け入れられやすいし、生産者など協力してもらった方たちにできた写真を見せると喜んでもらえて。それは、写真を撮り始めたときの感覚と全く同じなんですよ。喜んでもらえて嬉しいという気持ち。撮る私と、作品を見た人と何かを共有できる感覚があります。
写真家を目指すのに重要なことを教えてください。
野口 写真に限らず、絵や音楽などのアートは世の中で食べていくのに本当に必要なものかと言われたら即答は難しいです。だから、学校の先生や親に「食べていくのは大変だよ」と言われるのが普通です。それで辞めるんなら辞めた方が良いかな。当然厳しい世界ですから。それを理解しながらも自分の意志で進むのが最も重要なところなんです。努力すればいつか報われる、という保証はないですが、本気で努力すればその中での出会いや経験が宝となってどんな道を選んでも後悔しない人生を過ごせると思いますよ。
- (株)スタジオオーツー 代表 野口 勝宏(のぐち かつひろ)さん
- 出身地
- 福島県耶麻郡猪苗代町
- 出身校
- 東京工芸大学
- 休日の過ごし方
- 花の一番美しい時を逃さないように、お休みの日も花を追いかけて写真を撮っていることが多いそう。
※この記事はaruku2016年11月号に掲載したものです。内容は取材時のものです。